人間、生きていればさまざまな体調の変化に悩むことになります。私たちが「自分は生きているな、生き物なのだな」と感じるときというのは自分の「生」の部分を意識した時にほかならないのです。

日々食事をし、その日の活動を経て、やがて眠り明日に備える。そのようなことの繰り返しで私たちは生きています。毎日慌ただしく生きていても、人それぞれ同じだけの時間を重ねるものです。私たちがいつも感じている時間がだんだん短くなっていくような気がするのは、生きてきた時間が長くなればなるほど、これから過ごす時間が短く感じられるようになるからです。子どもにとっての一時間と、大人にとっての一時間は違うということです。同じ時間を過ごしていても、その感じ方はバラバラなのです。ですが、確実に「同じ時間」です。あっと言う間に過ぎても、とても長いと感じても、同じ時間が過ぎていて、私たちの身体もそれに伴って変化しているのです。

社会人になると「身体が資本」です。働くことの大前提として自分の体調が整っていることが必要です。しっかりと自分の責任を果たすためには、自分のパフォーマンスを発揮するためには、体調が整っていることは必要なのです。そのような私たちにとって、体調管理は自分が社会で活躍するための「責任」ともいえることになるでしょう。ですが、「常に万全」でありたいと願う体調も、時には崩れてしまうこともあります。それは「人間だから」なのですが、どうしてもその日に外せない案件などがあるのであれば、おちおち寝込んでいることもできません。

体調の変化にはさまざまなものがあります。大人であれば、「こんなことをしていては体調が壊れる」ということや「こんな状態ではまともに働けない」ということが自分でわかるはずです。自分の身体のことは、自分が一番よくわかるはずです。そのようにして自分の体調を管理していても、身体は正直なもので、無理をするとすぐに体調が悪くなる人もいることでしょう。

そのような体調変化の中でも厄介なものが「頭痛」です。傍目からはその辛さというものはわからないものです。頭痛がすると何事も集中できなくなってしまうもので、思考能力自体も低下してしまうことになります。身体自体は何の異常もないのに、頭痛がするということはとてもつらいもので、一過性のものであればそのまま我慢すれば治るかもしれず、ただその時点ではそれが一過性のものなのかずっと続くものなのかがわからないのです。

傍目から見てなんともないように見えることが一番問題で、私たちは未だにそれら「頭痛」という体調の変化に対してうまく適応できないのです。それらの変化は実は何事もないことかもしれず、実は重大な疾患の前兆、あるいは症状かもしれず、私たちは頭痛に対して自分たちがうまく適応できないことにとても苛立ちを覚えます。

人間が「脳」を持つ限り、繊細な神経網を持つ限り、これらの「頭痛」は永遠の悩みであることは変わりません。「頭痛を治す」薬はあっても、「頭痛が起きない」薬は未だ開発されていません。私たちはその都度頭痛に対して対処していくしかないのです。それも、日々の責任をこなしながらです。誰もが等しく頭痛と戦っています。そして、自分なりの対処方法で解決しているのです。