現代人が抱える慢性的な頭痛の素

私たちは日頃から「頭痛のリスク」と共に暮らしているようなものです。「人間」にとっては「何が自然で何が不自然なのか」ということはもはやわからないといっても過言ではないでしょう。

森の中で暮らせば頭痛が治るのか、それとも水辺で暮らせば頭痛が治るのか、そのような次元ではないということです。考えを深く巡らせるだけで頭痛が起きる人もいます。雨が降れば頭痛が起きるという人もいます。それらの諸症状に対して私たちは根治する「決定打」を持っていないのです。決定打がないから、どうしても迷ってしまいます。決定打がないから、どうしても頭痛を「どう治すのか」」ということに重視して、頭痛が起きないようにするという点に至らないのです。それが私たちの宿命であり、生きていれば必ず頭痛を経験するものなのです。そのため、「頭痛薬」というものは生きるためにどうしても必要なものであるということになります。

私たちは頭痛と共に生きていくしかないということです。頭痛が起きないように考えることももちろん忘れてはいないのですが、風邪をひいても頭痛になります。お酒を飲み過ぎても頭痛になります。それらのひとつひとつに対して「頭痛が起きないように」という対策をとるためには原因が多岐にわたり過ぎるのです。例えばこれが「ケガをしないように」という考え、注意であればハナシは別です。「ここから飛び降りると足を折るだろう」とか、「ここで転ぶとケガをするだろう」ということは簡単に想像ができます。それは私たちが「物理的にこれは危ない」ということが想像できるからです。「火」は生活する上で便利ではあるのですが、その火に直接さらされることで身体がどのような状態になるのかは、周囲の教えや経験で知っているものです。「危ない」という考えに至ることができるのです。

ですが「頭痛」のパターンは自分では把握することができません。何か疾患になっても頭痛が起きることがありますし、偏頭痛も誰がいつ抱えることになるのか、わからないのです。肩こりがひどくでも頭痛になるものですし、アルコールの過剰摂取でも同じです。そのような頭痛に対して私たちはクリティカルな根治方法を知りません。そして、そのようなものはありません。頭痛の素、頭痛の原因は生きている限りたくさんあるのです。そして、それが私たち「人間」だけが持つものなのかもわかりません。頭痛は目に見えなからです。他の動物に頭痛がないのかどうかは、わからないのです。

どのようにして頭痛と付き合えばいいのか、私たちはずっとそれを考えることになります。それが生きることでもあります。高度な知性を有したが故の宿命なのかもしれません。私たちはこの発達した頭で「何が頭痛を引き起こすのか」を考えることになります。そのときにはすでに頭が痛いかもしれません。それでも、ただ痛みが自然に治るのを待つよりも、「原因が何なのか」考えて治療に努めることの方が正解です。ただ痛みに屈することは文明的ではないのです。ただ痛みが去るのを待っても、悪化するだけかもしれないのです。発達した医療、先進的な治療薬を駆使して頭痛と闘う姿勢、それだけは絶対になくしてはいけないのです。