頭痛が言い訳にならない局面もある
どうしても解決できない頭痛、その時その場に服用できる頭痛薬もなく、ただ頭が痛むということもあります。ただ、自分がおかれた状況、局面によってはその頭痛のためにその場を外したり、静養したりすることが出来ない場合もあります。
どうしても耐えられない、どうしても我慢できない身体の「症状」として頭痛があります。似たような身体の異変に「腹痛」があります。ただ、腹痛はトイレに駆け込めば済む場合もあります。また、その場を中座することがしやすいものでもあります。ただ、「頭痛」は人から見えるものでもなく、その場を中座するほどの「頭痛」というものは当人以外の人から見れば「非常事態」にも等しいものです。「頭が痛い」のでその場を離れたり少し休憩したりするということは、そのような頭痛が慢性的に起こる人にしか理解できないものではあります。
そのような症状に当てはまるものは「偏頭痛」です。現代人の1割近い人が偏頭痛に悩まされていると言いますが、その苦しみはそのような偏頭痛を抱えた人でなければわからないものなのです。「腹痛」は誰でも起こります。ある意味人であれば、現代社会で生きる人であれば、その「腹痛」の苦しみ、時と場所を選んでくれない体調の変化に対して理解を示すことができるものですが、偏頭痛に対しては違うのです。私たちはある意味「頭痛」に対しての理解に、人によって「差」があるといってもいいでしょう。差があるから、なかなか理解できないのです。
頭痛に対する理解がある人であれば、時には吐き気を伴い、場合によっては「嘔吐」まで引き起こしてしまう「偏頭痛」に対して「静養が必要だ」と自然と納得してくれるものなのですが、そうではない場合、それまでそのような症状を訴える人と接することがなかった人などは、想像もできない事態なのです。さらにその場ではその人が「そうである」ということが判別できないということもあります。「腹痛」も同じなのですが、腹痛の場合は「想像できる」のです。急にお腹が下ってしまうという事態を、誰もが経験したことがあるため、その時の辛さというものを誰もが想像できるのです。想像できるからその辛さに対して「共感」できる。ですが突発な頭痛に対してはそうではないのです。
偏頭痛持ちの辛さは「周囲の理解」をどのようにして得るのかという点にあります。「周囲が理解してくれない」と、どうしても無理をしなければ「無責任」のように見えてしまう、また周囲からそのような評価を受けてしまうということも多いに考えられるのです。それが頭痛持ちの辛いところで、社会で生きていくためのハンデになっています。ただ、偏頭痛持ちの人は自分の頭痛がどのようにして起こるのか、前兆などを自分で把握していることも多いもので、予め自分で薬を持ち歩いたりしていることもあります。それらを上手に活用することで人に訴える前に自分で対処していることも多いのです。ですから職場などではなかなか「頭痛が酷いため」という理由で中座したり早退したりするような人はいないのでしょう。それが輪をかけて「理解」を薄くしてしまう原因ともなっています。頭痛が存在する以上、私たちはそれと上手に付き合う必要があるのです。