気になるとキリがない頭痛
外傷性の頭痛でない限り、外から、つまり外科的な手段を用いて自分で痛みを治すということができません。頭の中に手を入れて、患部を処置するということができないのです。
頭痛は事象としては自覚できます。どの部分がどのように痛むのか、自分ではよくわかるものです。自分にしかわからないのです。ですから、身体は元気なのに頭痛によってなんだか動きが悪い、さらに痛みが長引いてイライラしてしまうということも起こります。そのようなことは自分にしかわからないものなので、周囲の人は理解することができません。まわりから見ると「なんだかイライラしているようだ」という見え方になり、「どうしたのだろう」と気にすることになります。
頭痛にはさまざまな原因がありますし、中には危険な疾患、重大な疾病の前兆であったり、併発された症状として発生していたりということもあるかもしれません。私たち自身、つまり頭痛を抱えた本人でさえ、それらの原因に対して「意味がわからない」ということがほとんどです。身体の中、頭の中で何が起こっているのか、自分は健康では無くなってしまったのではないかということを疑うこともしばしばあるでしょう。
ただ、私たちの身体は以外と繊細であり、さらには「精神」にも関連して変動するものです。気持ちが沈んでいるとき、極度に緊張したとき、楽しいとき、暇なとき、それぞれ身体の反応があるものです。一旦頭痛のことが気になり出すと、ずっと気になってしまうものです。そして、少しでも頭が痛いと「自分は頭痛だ」、「頭痛持ちだ」と、またイライラしてしまうことになります。私たちに必要なことは頭痛を治すことも重要なのですが、実は「たいしたことがなければ受け流す」ということも求められているのです。
人の身体は実に繊細です。気圧の変化だけで頭痛が起こるものです。」私たちにとって外界は常に自分の身体に作用し続けているものです。あまりにも眩しい光を浴びたて目が眩み、そのせいで頭が痛い、空気の悪いところにいたから頭が痛い、酸素が足りなくて頭が痛い、ほかにもたくさんあります。「頭痛」という現象だけにフォーカスすると、そのようなことは多々起こり得ることなのです。それよりもその時何をしているのか、仕事中なのか遊んでいるのか、その状態ではその活動が続けられないのかなどということをしっかりと見極める必要があるでしょう。
私たちの頭痛は、何かを知らせるサインです。「身体にとってこの状態は良くない」ということを知らせるサインなのです。そのようなサインの数々を薬で潰してしまうのは、生き物として歪んでいると考えると行き過ぎでしょうか。ただ、頭が痛くなったことには必ず「理由」があるものです。その理由を考えることで、少しでも自分の「体調」を良くするという子につながります。自然に治るのであればそれが一番いいですし、慢性的に頭痛薬を服用するのもあまりよくありません。自然に治るものは自然に治すということ、あまりにも酷いのであれば、その時に薬でごまかすのではなく、病院で診てもらうということ、頭痛によって何かが示されている、自分の体調に異変が生じているということを、まずは最初に考えるべきでしょう。