頭痛を根絶することはできない
私たちは生きている限り、さまざまな体調不良に悩まされることになります。生きている限り、「身体」と付き合い続ける必要があるのです。この身体を用いて働き、その対価によって糧を得て生きているのです。
その現実は未来永劫変わることはなく、生きるために働き、働くために身体の健康を保つということが繰り返されるのです。生きていく中で自分の幸せを見つけ、目的を見つけ、自分が何をしたいのか、自分がどこへ向かいたいのか、考えながら生きていくことになるのです。それは私たちが「知恵」を身につけたときから変わることなく続いてきたことであり、この先も変わることがないことです。私たちの活動の根幹は私たち自身なのです。
そして同時に、「身体」がある以上は「老い」があります。体力の衰えがあります。どれだけ元気でいようとしても、「老い」には誰も逆らえないのです。老いることで私たちは身体に異変を感じるのです。ですが、それは緩やかな変化であるので、気がつけば突然老けたと感じたり、時の流れの速さ、そして時の流れの絶対抗えないチカラを感じたりするのです。その時間の流れの中にあっても、私たちは「生きる」ということを続ける限り自分を正常に保って役割が果たせるように努める必要があるのです。
「頭痛」は、私たちの身体が発する異常の「シグナル」の中でも顕著なものです。頭痛を感じることで私たちは自分の身体に起きている異変の数々を感じとることができます。また、その頭痛自体で正常な活動ができなくなることもあります。「頭痛」は、私たちが知り得る限りでも最も顕著で厄介な症状です。できることならそのような辛さは生きている間に一度も味わいたくないものです。発症してほしくないものです。ですが、それは「不可能」です。
そもそも「痛み」というものは異変を知らせるシグナルです。痛みを全く感じない人がいれば、その人は自分の身体を大切にすることを知ることができないでしょう。自分がいたくないから、人も痛くないと錯覚するかもしれません。「痛み」があるから、「大切」にするということが可能なのです。私たちが感じる「痛み」は、私たちを守る機能のひとつなのです。ですから頭痛もなくすことはできません。「生きる」ために必要な身体、生きるために大切にしなければいけない身体、それを守るためのもっとも重要な感覚が、「痛み」なのです。
頭痛をなるべく予防することはできても、まったくなくすことは不可能です。また、身体の異変のシグナルとしての頭痛は必要なのです。頭が割れるほど痛い、なにも出来ないほど痛い、吐き気をともなう、嘔吐する、そのような「異変」自体が、身体の「悲鳴」なのです。自分の身体を大切にできるのは自分だけです。ずっと誰かに守られて生きることはできないのです。自分の身体の限界を自分で知り、「これ以上は無理だ」と判断するのも自分です。
自分自身が大切にしていない身体は誰も大切にしてくれることはありません。自分自身が自分自身を大切にすることが「健康」の基本であり、細かな自分の身体の特性を知ることは、生きるための知恵でもあります。私たちは知恵を付けて文明を伸ばしてきました。いつの世でも、その根幹にいるのは私たち自身なのです。