目の疲れと頭痛

目を酷使すること、それは現代に生きる私たちの宿命です。現代では「目」から得られる情報は膨大なものがあります。それは考えるまでもなく発達し、誰もが持つようになった情報端末のせいです。私たちは仕事もプライベートもそれらの情報端末の画面からさまざまなもの得ているのです。

「見る」ということは私たちが生きるためにとるべき行動の大半です。私たちの高度な脳は目から入ってくる情報のことごとくを「理解」しようと努めます。また、「目」から入ってくる情報を意図的に好きな情報にして、「楽しむ」ということや「癒される」ということを繰り返すのです。「見る」ということは私たちにとって「自然」なことであり、またこれからも変わることがない情報入手方法です。目から飛び込んでくるさまざまな情報に対して「理解」する、「考える」ということができるのは私たちが「高度な生き物」であるからです。

他の動物はどうなのかと考えてみると、私たちのように「目」がいいわけではなく、嗅覚が特に優れていたり、聴覚が特に優れていたりということもあるわけです。ですから、「生き物」のすべてが「目が良い」というわけではないということです。私たちが聴こえないものを感じ取る動物もいれば、私たちがいくら嗅いでもわからない臭いを判別する動物もいるのです。私たちは特に「目」に偏って発達したのです。それは文字を判別できるようになったからかもしれません。刻みつけた文字を「見て」、「理解」する、つまり「読む」ということを覚えたからかもしれません。また、発達した豊かな精神性が「美しい」と感じることができるようになったからかもしれません。私たちが備えているのは「視覚」に対する無意識の反応なのです。

その「見る」ということに頼って発達してきた私たちの文化、文明は、「画面」というものを生み出しました。それは高度な演算能力に裏打ちされた「コンコピューター」によってもたらされたもので、それらがどんどん発達した今となってはそれなしでは仕事も出来ないというほどです。また、小型化し手の中に収まるようになった情報端末はプライベートにも進出し、私たちはそれらを自由自在に駆使して必要な情報、楽しむための情報、知りたいと思ったことなどを得ているのです。

それはまるで自分たちが「それらの情報に生かさされている」かのような状態です。実際にそうなのではないでしょうか。私たちはどのようなものであれ、コンピューターがなくては生きていけないというような状態にいるのです。「見る」ということはそれほど大切なもので、一生のうちに「見る」ものは膨大です。

それ故、私たちの「目」は日頃から酷使されているのです。目が疲れるということは言ってみれば「現代病」のようなものです。目が疲れるから私たちはその目に対してケアを考えます。その頭痛も、「目が疲れているから」引き起こされたものであるかもしれません。それは回避のしようがなく、現代で生きている限りはどうしても続くものです。仕方のないものです。ただ、対処方法としてはなるべく画面から目を離すということや、明るいところで画面を見るなど、さまざまなものが考えられます。また、「耐性」も人によって違うものです。