「頭が痛い」は人からはわからない

「体調」は誰でも悪くなります。そして、それらの中には自分では自覚できないものの、人から見ればわかるものなどもあります。自覚症状はまったくないのに顔色が驚くほど悪いということも起こり得るものです。

そのような身体の不調に対して、人に気がついてもらえるということは、本人にとってはありがたいものです。自分ではわからないようなこと、外見的に症状が発生しているような場合は、人からの指摘ではじめて自分が体調を崩していることがわかるのです。まだ病気を経験していない子ども、自分の身体の状態を自分で把握することができない老人、そのような人に対してはまわりの人が気が付かなければどうにもならないということも起こり得るものなのです。私たちはそのように支えあいながら、助けあいながら、過ごしているのです。自分では歩けない人を補助したり、自分ではわからないことを人に聞いたりしながら生きているのです。そのようなことの繰り返しで、私たちは相互に影響しあいながら生きています。

ですが頭痛だけは、どうしても自分だけにしかわからないものです。「あなた、頭が痛いのではないですか」とは言えないものです。外見上なにも変わらないからです。もちろん、頭を怪我して血を流していれば別です。それは「怪我」ですから、ひと目で異常がわかるのです。ただ頭の中で発生している痛みに関しては、その人をパッと見るだけではどうしてもわからないものなのです。そのような症状に対して私たちは「自分自身」で解決するしかありません。自分で「頭痛だ」と認識して、必要な対処を取るしかないのです。

問題はそれが出来ない人です。それがどうしても不可能な人もいます。それが「子ども」と「老人」です。自分ではまだ話すことが出来ない子どもは、「頭痛である」ということを私たち大人に伝える方法がありません。どこかに頭をぶつけたのであれば、外傷でそれはわかるかもしれません。ですが何かの原因で起きている頭痛を外から判断することはできないのです。老人も同じです。どうしても頭が痛いのに、それをうまく私たちに伝えることができないかもしれません。

それはどうしようもないことです。ですから、そのような対象に対してはなるべく「何事も起きないような配慮」が必要になるでしょう。何事も起きないように計らうこと、大切にしてあげることが必要です。ストレスを与えない、栄養が不足するようなことも避ける、気温にも気を配り、なるべく健全でいられるように最大限配慮してあげることが大切なのです。そのようなことを実践してもどうしても様子がおかしい、体調が安定しないのであれば、そのときは「医師」に相談するなどが必要です。

人が発生させる「症状」のひとつとして、「頭痛」はとても厄介なものです。頭痛を回避する術はなかなかないものですが、「頭痛」とわからないことも問題なのです。自分から「頭が痛い」と言える状態であれば、突発性のものであれば薬で治してあげることができるのですが、頭痛かどうかこちらではわからない状態で頭痛薬を与えるのは怖いものです。私たちにとって「頭痛」は生きている異常向きあわなければいけないことではあります。ただ、それが「わからない」ということも事態としてはありえるのです。